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【ネタバレ注意】ブレードランナー2049感想

ブレードランナーのリバイバル上映、見ましたでしょうか。
私は見てまいりました。
ああ、、、、、、、、、よかった、、、、、、。
ブレードランナーは「はじめましての文」にも書きましたが私が一番好きなSF映画でして、まさかこれを映画館で、しかもIMAXで見ることができるなんて夢にも思いませんでしたよ!!
2019年の雨の日に、この映画を見ることができるこの世界に感謝いたします。
と、いうわけで見てきたのですが、そういえば2049が公開された時に大ハマりして3回見に行って、感想が止まらなくて書き殴ったのがあったな〜と思い出しまして。
せっかくだからそれを少し編集してアップしようかと思い立ちまして。
まして。
ブレードランナーを見に行きましたが今回はブレードランナー2049の感想をぶち上げます!!
もちろんブレードランナーも鑑賞済みであることを踏まえての2049の感想なので、何卒ご容赦ください。
とか言って写真はリバイバル上映で見に行ったブレードランナーの方ですが。
【ネタバレ注意】ブレードランナー2049感想_a0380718_23013303.jpg

いつも通りのソウルトーク感想文です。
ネタバレ大注意。

役者様の話なんだけど、Kがライアン・ゴズリングでほんとによかったと1回目見た時思って、それってゴズリンがまじでレプリまんまだからなのよ。

ゴズリン自身が、顔面はヘラっと笑っててもどこか別のことを考えてるように感じる。

それが表面で笑ってても心の中では笑ってないとかじゃなくて、心の中では今日の晩飯のこと考えてるってレベルで別のこと考えてる感じなのよ。

そういう表情と心の乖離みたいなのが常日頃から見え隠れしているところが、ゴズリンがレプリたる所以というか、Kをリドリーからもハリソンからも強く推された所以だと思うのよねー。

あとパンフに書いてあった、ウォレスはデビットボウイに依頼しようとしたけど死去してしまって、容姿が似ているジャレッドレトを起用したの、面白い偶然だなと。
そういえばちょっと似てるかも。
でも最終的にちゃんとキャリアもある俳優を使ったのは正解だったかもね。

それからウォレスの話
尊敬する町山智浩氏のムダ話の中で、ウォレスは神になろうとしてると言ってたけど、私は人間とレプリカントの争いはネアンデルタール人とホモ・サピエンスの生存競争に似てると思った。
ウォレスのファーストネームが二アンダー(=ネアンデル)の時点で人間の負けは確定しているようにも感じる(?)。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは声帯の有無という僅かな差で言語を獲得したホモ・サピエンスが勝利した。
しかもホモ・サピエンスはネアンデルタール人との間に子どもを産んだりして共存しつつ生き残ったから、まさにレプリカントの人間に混ざりながら生きるという生き方まんまなんだよなあ。

楽曲比較
2049の「tears in the rain」はディストピアの中の一筋の希望のように感じる、低音の響きにまみれた音楽の中にひとつだけ高い音が混じってる曲だった。
1作目のブレードランナーの「tears in the rain」は絶望や恐怖の中にある一抹の寂しさみたいなものに感じて余計に切なくなった。
同じ曲なのに状況の違いでここまで別々の魅せ方をできるんですね。
ハンス・ジマーが隅々まで行き届いていて、大変どつかれました。

私が2049で泣いたシーンは、Kがデッカードに「彼女の名前は?」と聞いて、デッカードが少しの沈黙の後「レイチェル。彼女の名は、レイチェル。」と答えるシーンだった。
あれはKは早くその名をデッカードから聞きたくて、デッカードもその実その名を口にしたかったんじゃないかと思えて、お互いにとってレイチェルという存在がどれほどのものなのかがわかるシーンのように思う。

ラストでデッカードが「お前はおれの何だ?」的なことをKに聞いて、それにKは答えずに「娘に会いに行け」と言う 。
関係のない他人のために命を投げ打って生きた証を残そうとするのはまさしく人間のやることだからだろうか。
ブレードランナー1作目のロイバッティが、雨の中の涙のように自分が生きていたという証や、意味や、記憶なんかが消えて行く前に、せめて目の前のデッカードにその生き様を焼き付けたいと思ったように、Kも誰かの為に死ぬ気で生きたという証を残したいと願ったんじゃないか 。
でも、いつか消えてなくなって、誰の記憶からもいなくなってしまうのは人間も同じで、それを考えるとどうしてレプリはそうまでして「人間」になりたがるのかとかを考えてしまって、でもやっぱりレプリにとって人間はどうしても憧れてしまう、羨ましい存在なんだろうなとか思ったり 。
感情移入もできて、蜂も殺さない、子供も生めて奇跡を信じ、大義のために自らを犠牲にするレプリは、どうして人間じゃないんだろう 。
それは彼ら自身が人間に憧れていて、自分をレプリだと自覚しているからで、悲しいことにそれが彼らを一番人間から遠ざけてるんだよなあ 。
だからそこラストで雪の中、手のひらで痛みと、寒さと、雪の冷たさを全て「感じて」いたKは、人間になれたと言っていいんじゃないかな 。
人間の愚かさや悲しさや無意味さを理解して、苦しみや絶望すらも感じることができたKは必死で生きて死ぬことによって、人間になれたんだと思う 。
彼は人間になりたいピノキオなんだなあ。

by kk2inugoya_i24 | 2019-09-16 23:14 | 映画 | Comments(0)